愛犬を安楽死させること、もしくは安楽死させなかったこと
安楽死――。
とてもデリケートな問題で、安易に口にしてはいけないような気がします。
すべての犬が眠るように穏やかな最期を迎えてくれたなら、こんなことは考えずに済みますよね。
しかし、現実はいつだって残酷で、どれだけ大切にしていても、どれだけ愛情を注いでも、安楽死を選ぶべきか迷う日がくることもあるのです。
愛犬の安楽死を選択するとき
あえて言葉にする必要もないぐらい当たり前のことですが、安楽死は安易に選択するべきではありません。
病気やケガなどなんらかの理由で犬が苦しみの中にあり、それをどうにかしてやれる方法が見つからず、その状態のままでいるより命を終わらせたほうが苦痛から解放してあげられると判断された場合の苦渋の選択です。
なぜわざわざそんな当たり前のことを言うかといえば、自分勝手な都合で犬を処分することと安楽死を同義だと勘違いしている飼い主が少なからずいるからです。
しかも性質(たち)の悪いことに、それを「保健所で処分するのに比べたら犬に優しい行為」と勘違いしているのですから救いようがありません。
どうがんばってもなんらかの事情で飼えなくなってしまったのだとしたら、新しい飼い主を探す努力をするべき。
それを怠って安楽死による処分という安易な手段をとろうとしているのです。
しかも、獣医師に生き物の命を終わらせるという重責まで押しつけています。
こんなにあつかましい考え方があるでしょうか。
そういう意味では、処分を押し付けられる保健所の職員の方も気の毒でなりません。
そのような発想をする人には絶対に犬を飼ってほしくないのですが、安易に犬を飼って安易に犬を処分しようとする人は、間違いなくまた安易に犬を飼うのがお約束なんですよね。
どちらを選択しても答えのでない問いが続いていく
精一杯愛犬の看病をして、なんとか治療法を探しても見つからず、これ以上苦しみが続くよりは……と苦渋の決断として安楽死を選択したとしても、飼い主さんの心には一生答えのでない問いが続くことになるでしょう。
――もしかしたら、この子は苦しくてももっと生きたかったのではないだろうか?
――もしかしたら、見つけられなかっただけで実はどこかに治療法があったのではないだろうか?
――もしかしたら、もしかしたら、もしかしたら……。
安楽死を決断したことに後悔はない、そう考えていても、ふと「もしかしたら」という疑問がわきあがることがあります。
残酷なようですが、この疑問に答えはありません。
しかしこの葛藤こそ、飼い主さんが愛犬を大切にした証ではないでしょうか。
それは、安楽死を選択しなかった飼い主さんにとっても同じです。
――もしかしたら、この子は苦しみからもっと早く解放されたかったのではないだろうか?
――もしかしたら、安楽死を選択せずに1日でも長く生きてほしいと願ったのは自分達のエゴだったのではないだろうか?
安楽死を選択してもしなくても、愛犬を大切にした飼い主さんの心には、答えのでない問いが続いていくことになるでしょう。
それはきっと考えるたびに心が苦しくなる問いですが、一つだけはっきり言えること――。
それは、どんな形であるにせよ、大好きな飼い主さんに看取られて命を終えた犬は間違いなく幸せだった、ということです。
先のことがわからないからこそ、今日この日を大切に
愛犬の最期はおろか、自分の最期でさえどうなるかなんて誰にもわかりません。
当たり前のようにそばにいてくれる愛犬が、明日も明後日もその先もずっと同じようにそばにいるとは限らないのです。
だからこそ、愛犬を精一杯甘やかし、おなじぐらい厳しくしつける毎日が大切なんですよね。
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