愛犬を失ったときの家族の温度差
愛犬を失った喪失感に苦しんでいるとき、無神経な言葉を投げつけてくる人がいます。
そういったデリカシーのない言葉を平気で発してしまうのは、意外なことに赤の他人ではなく、家族や親族であることが多いんですよね。
仮に家族全員で可愛がっていた犬が亡くなったとしても、全員が同じように喪失感を感じるとは限りません。
おそらくは、最も深くその犬と接した人が、最も大きな喪失感に苛まれることになるのでしょう。
最も世話をした誰かが一番喪失感に苦しむことになる
お子さんのいないご夫婦が、目に入れても痛くないほど可愛がっていた犬。
そのワンちゃんが、闘病の甲斐なくこの世を去りました。
奥さんは愛犬の死から数か月が経過してもなお、ちょっとしたことがきっかけで、いまだ泣き崩れてしまうこともしばしばです。
深い喪失感と、もっと何かしてやれることがあったのではないかという後悔に苛まれ、なかなか立ち直ることができずに、もがくような日々が続いていました。
そんなある日、ご主人からこう言われたそうです。
「いつまでもメソメソして鬱陶しい。頼むから人前で泣くのだけはやめてくれよ。そんなに悲しいなら次の犬を飼えばいいだろう?」と。
あまりの温度差に、その奥さんはそれ以降、ご主人の前で愛犬を失った悲しみを口にすることができなくなりました。
ご主人にしても、あれだけ可愛がっていた愛犬が亡くなってしまったのです。
悲しくなかったわけではないのでしょうが、奥さんが感じているような喪失感を抱いているようには見えませんでした。
では、奥さんとご主人の何が違っていたのかといえば、それは愛犬と過ごした時間の濃度ではないでしょうか。
ご主人は仕事に行くので犬と触れ合うのは平日の朝と夜、そして週末というサイクル。
それに対して奥さんは専業主婦ということもあり、犬と一緒にいられる時間が圧倒的に長かったのです。
しかも、亡くなる前の数ヶ月は奥さんがつきっきりで愛犬を看病していたこともあり、愛犬とがっちり向き合うような、とても濃密な時間を過ごしていたのでしょう。
だからこそ、奥さんの喪失感がご主人よりはるかに深いものになってしまったのは必然であり、ご主人に同じだけの喪失感を味わえと言ったところで、それは無理な話です。
家族といえども、悲しみや喪失感をどの程度感じるかは一律ではありません。
最も世話をした人こそが、最も喪失感に苦しむのは避けられないことではないでしょうか。
温度差のある家族より、気持ちを共有できる他人
愛犬を失った喪失感は、一朝一夕で癒えるものではありません。
あせらず、あわてず、少しずつ心の中で折り合いをつけていくしかないのです。
しかし、ときには心の中に溜まってしまった悲しみや後悔という感情を、誰かにさらけだすことも必要。
ただし、その相手が家族である必要はありません。
同居していようが血がつながっていようが、共感できない相手に共感を求めても自分が苦しくなるだけです。
真の意味で共感できるのは、同じように愛犬を失った喪失感を知っている人だけ。
ネットを介してしか知らない人だったとしても、掲示板などでやりとりをしている相手が苦しみに共感してくれることで、喪失感を抱えた心が救われることもあるのです。
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