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最期を看取ることができなかった犬への消えない後悔

この記事の目次

家族の一員である愛犬が死んでしまうことは、生きた年数に関わらずつらい出来事です。
たとえどんなに長生きだったとしても、その死をあっさりと受け入れられるものではありません。
それでも1日1日を過ごしていくうちに、少しずつ気持ちが落ち着いていくものなんですよね。

しかし、どれだけ月日が経っても愛犬の存在が消えてしまったことを受け入れられないことがあります。
それは、愛犬の最期がどうであったのかを知ることができないときです。

愛犬が行方不明になるのは死なれるよりつらい

これまでに何匹もの犬を見送ってきました。
どの子についても思い出すだけで今でも鼻の奥がツンと痛くなります。
何年経とうとそれは一向に変わりません。

しかし、それと同時に懐かしい思い出がよみがえり、たとえ涙がこぼれたとしても辛い感情とは違うと感じています。
なんというか、温かくて楽しくて寂しい、そんな気持ちになるんですよね。

でもある1匹だけは、思い出すたびにやり場のない重苦しい気持ちにさいなまれます。
それは、自分の不注意から行方不明にさせてしまい、そのまま見つからなかった犬のことです。
あの子がいなくなってからもう14年という長い年月が経ったというのに、いまだに何一つ苦しかった感情は消化しきれていません。
行方不明になったとき、すでに8才を迎えていた犬です。
いなくなった後どこかで飼われていたのだとしても、もう生きてはいないでしょう。

あの子はあの後、いったいどうしていたんだろう?
最期はどんなふうに迎えたのだろう?

考えたところで知りようがないのに、どうしても考えてしまうのです。

そんなバカな……、ということは起こりうる

14年前にいなくなった犬は、まさに「消えてしまった」としか言い様がありませんでした。

車で4時間ほどの距離にある実家。
8月のお盆休みにその犬と一緒に帰省したときのことです。
実家はマンションの9階にあり、その日母と二人で買い物に出る間、犬を1匹で留守番させました。
この犬は実家にとても慣れていて、今までに何度も留守番をさせたことがあったんです。
だから油断したのかもしれません。

朝の散歩から帰ったあと、首輪を外したままでした。
その日、買い物から帰ると家の中に犬の姿がありません。
リビングの網戸が少し開いていて、どうやらそこからベランダに出てしまい、さらには隙間を抜けてマンションの通路へと出てしまったようです。
実家のある部屋は占有面積の三辺がベランダになっているので、ドアの前の通路と接しているのが災いしました。
そしてここからは推測になりますが、おそらくはそのまま通路を走り抜け、最奥の非常階段を下りてマンションの敷地外へと出てしまったのでしょう。

正直に言えば、いなくなった犬はすぐに見つかると思っていました
何度も通ったことのある散歩コースを気ままにめぐったあと、マンションの1階で待っていれば帰ってくると信じていたのです。
もちろん、考えつく散歩コースはすべて探しましたが、待てども暮らせども一向に帰ってきません。
そこで保健所はもちろんのこと、近所の交番にも犬が行方不明になったことを知らせ、さらには犬が通りそうな道沿いにある商店街で片っ端から聞き込みをしました。
ところが犬を目撃した人が見つかりません。
実家のある市とその周辺の市町村すべての保健所で保護されることはなく、さらには交通事故などにあったと思われる犬の死骸も見つかりませんでした。
実家から出ている家族の手も借りて何日も探しましたが、一向に見つかりません。
そこでペット探偵に依頼をしましたが、それでも見つけることはできませんでした。

後悔はほんの少しも消えない

たとえば、行方不明になった犬が事故にあい、死んで戻ってきたとしてもつらかったでしょう。
でも、少なくともあの子がどこでどうしていたのかを知ることができる分、気持ちの中でなにがしかの区切りがつけられたかもしれません。
しかし、あの日消えたあとの行動がまったくわからなかったことで、あの子の存在を失ったことをどう頑張っても消化できず、そのままの状態で14年という年月が経ってしまいました。

もしかしたら、あの子は誰か良い人に保護されて、幸せな生涯を送ったのかもしれません。
でも、もしもそうではなかったら?
気持ちに折り合いをつけようとしても、その疑問を消すことができません。

愛犬の一生をきちんと見届けられないことは、愛犬の最期を看取ることより辛くて救いがないことであると知りました。